21世紀のデモ……?
スマートフォンでアメリカ合衆国大統領の書き込みをリアルタイムに見ることが可能な21世紀の現代においても、デモであったり、スキャンダル報道であったり、政治にまつわる諸現象は、「これが本当に現代なのか?」と思わせる光景を見せつけてくれる事が多い。
上記記事で紹介しているのは、Twitter社日本法人が入っているビル前での抗議デモである。差別的投稿をTwitter社が野放しにしている事に対する抗議が趣旨であるとの事。
上の写真はその光景である。彼らの足元にあるのは、彼ら曰く「Twitter上に投稿された差別的な投稿」という事らしい。
まず、このポストでは、上記デモの主張自体の是非についての論評はしない。是非もクソも所詮は政治だ。このデモを見て、Twitter社が経営としてどのように判断し、どう対応するのか。それだけの事だ。
日本のインターネット言論空間(滑稽な言葉だが、こう書くよりほかない)は2000年代中盤くらいから、2chを中心に、基本的に右側が優勢だ。Twitter社は日本ローカルのそういう状況を認識した上で、おそらく経営判断として、日本においては差別的投稿を欧米諸国に比べて比較的野放しにしておいたほうが、ユーザーを増やしやすいと考えているのだろう。デモがその判断に影響をあたえるのかについては未知数だが、その是非を論じたところで仕方がない。政治的主張に是非などない。好みの問題と、勝つか負けるかの問題しかないのだ。
さて、ここまでは前置き。ここからが本題。
21世紀の踏み絵w
デモの写真を見て、日本で義務教育を受けた者であれば、大半の人間は「踏み絵」を想起したことだろう。歴史教科書にも書かれ、江戸時代初期のキリスト教に対する弾圧の象徴としてのアレである。
差別に反対するためにデモをやっているのだが、実際にやっていることは踏み絵と同じであるということに、主催者およびその周辺メンバーは疑問に思わなかったのだろうか? 主張の是非以前に、説得力に欠けること著しい。それに、なんとも奇妙な光景である。デジタルデータであるTwitterの投稿をわざわざ紙に印字し、それを踏んづけることで主張を強めようというのだから、言ってしまえばデジタルに対して呪詛で対抗しているとも見ることができる。こんな事を21世紀の現代でやろうというのだから、政治というやつは、まだまだシャーマニズムの延長線上にあるのかねぇと、呆れて見るよりほかない。(だからこそ、ウォッチ対象として面白いのだが)
一方で、この行為に対する反応はどうか? 先にも書いたとおり、ネットは右が強い。私のような相当左属性の強い人間もドン引きするほどなのだから、当然批判の嵐となる。が、その批判もなかなかのもので、どうも「呆れ」の反応より「ヘイトスピーチじゃないものまで含まれている」や「踏みつけるという行為が暴力的だ」など、踏みつける行為そのものに対する「マジ怒り」が結構あるのだ。
書かれたものを踏ませるなど、乱暴な行為であることは確かなんだが、上にも書いたように、言ってしまえば呪詛の類でしかない行為だ。呆れることはあろうが、怒りの書き込みを1日中書いたりRTするような価値のある行動なのだろうか……?
あのツイートを印刷して踏みつけるってやつね,抗議というより「呪い」なんだよなあれ.憎いけど勝てない相手の代理物を呪詛の言葉を吐きながら痛めつけるっていう.
— バビッチ★佐野@おっぱい貧困調査官 (@babi_sano) 2017年9月9日
相手の名前とアイコンと言葉が詰まったプリントアウトは現代版の藁人形.カジュアルな呪いの儀式.
俺が覚えた忌避感の正体. pic.twitter.com/cuWF10fg0e
そういや前にも,憎い相手に似せた生首人形を血塗れにして晒したり,重機で轢いたりしてた奴らが居たっけな.根っこはあれと同じだと思う. pic.twitter.com/GPPzuCIApi
— バビッチ★佐野@おっぱい貧困調査官 (@babi_sano) 2017年9月9日
自分の家の前に誰が置いたのか分からない藁人形が落ちてたらそれは不気味だろうが、白昼堂々あんな呪詛をやっている連中に対して本気で忌避感や怒りを覚えるのなら、それは呪詛や祈祷の類で政治を動かしていた時代の人々とあまり変わらない感覚の持ち主ということだ。実に麻呂麻呂しい事である。
一方で、当事者であるTwitter社の連中は、おそらく東京スクエアガーデンオフィスの上から鼻で笑いながらあの光景を見ていたであろう。しかし、これが21世紀の先進国の政治風景だというのか……。
ちなみに、俺の投稿については、差別的なことを沢山書いた記憶はないが(少しはあるかも)、なんぼでも踏んで頂いて結構だ。なんならこのポストを印刷して、ケツを拭ってもらっても構わない。
政治はどうも人をプリミティブな世界に引き戻す力があるようだ。政治的なことに対してアクションを起こす側も、そのアクションに対してリアクションを取る側も、自分自身が21世紀にふさわしい振る舞いや言動を行っているのか、ふと立ち止まって考えるようにするべきではないか? と感じた次第。