毎日安倍政権の政治にはあきれることばかりで、安倍政権の政治姿勢を見ていると、もう日本の政治を言論や議会を通じてマシな方向にもっていくのは不可能で、暴動やテロリズム以外の方法はないのではないかという、強い確信が出てきたので、しばらく記事を書いていなかったが、さすがにこれは書かざるを得ない。
指摘しなければならない相手は、河野太郎自身ではなくマスコミである。
もちろん河野太郎のあのやり取りは、大臣の名に値しない最低のもので、こんな大臣は即刻辞任すべきであるし、はっきり言って議員辞職もすべきだと思う。
だが、片山さつきさえ辞任しないこの内閣の一員に(つまり、片山さつきと同程度の人間に)、そのような常識的な対応を期待するのは、道端に落ちているゲロやクソに世界を救うことを期待するくらいの狂った考え方なので、全く無意味である。
その前提で、まだマスコミにはほんの僅かの期待を込めて、指摘しなければならない。
マスコミは何故即時にその場を去らない?
今日書きたいことは只只これだけである。
あの質問4連発無視の意味を、マスコミ各社はわかっているのだろうか? 今日マスコミは、河野太郎にこのように言われたのと同じなのである。
「お前らの質問、俺が答えたいと思うことには答えるし、俺が答えたくない質問とか初めからなかったことにするから、俺が答えたい内容を『忖度』した上で質問しろよな」
そんな態度を示された上で、マスコミ各社は会見場を去ることもなく、質問を続け、会見そのものを成立させてしまったのだ。*1
こんな会見を成立させるなど、マスメディアとして恥ずかしくないのだろうか? こんな会見はぶち壊しにすべきである。
もちろんロシアと難しい外交交渉(領土の返還という、ほとんど不可能としか言いようのない交渉)をしているのだから、当然河野には答えにくいこともあるのだろう。また、答えにくさの中に、交渉の妨げになるから答えられないというものと、交渉の進展が思わしくないから答えたくないというものもあるのだろう。それは両方とも仕方のないことである。
だが、答えにくい質問に対しては、本件は相手のある外交交渉に関することなのだから、ただ「相手のあることなので、申し訳ないが答えられない」と言えば済むことなのである。それを、黙って相手の質問を無視するという、最も傲慢な態度で質問の存在そのものを押しつぶそうとした河野太郎は、そのように確信犯的にマスメディアを威圧して見せたのである。
冒頭のハフィントンポストのリンク先にアップロードされた動画の様子をしっかり見て欲しい。これが、パワーハラスメントでなくて何だというのだろうか? これが人間として誠実な態度だといえるのか?
そして、こんな態度をされたうえで、マスコミ各社はその場で会見をぶち壊しにせず、最後まで継続させたのである。この卑屈さ。情けなさ。各社には猛省して頂きたい。
佐藤栄作にはできるが、河野太郎にはできないのか?
佐藤栄作の退任記者会見で、佐藤栄作本人に促されてという面もあったが、記者が怒って全員退出したのは、大変有名な話である。
この会見に際し、各社の記者は、日韓基本条約批准、非核三原則の提唱、沖縄返還を成し遂げ、後にノーベル平和賞も受賞した大宰相たる佐藤栄作に対し、はっきりと怒りを表明し、その場で示し合わせて皆で去っていった。これが、人として取るべき当たり前の態度なのではないのか?
まして、相手は河野太郎ではないか? ロシアの交渉も(当然といえば当然だが)上手くまとめられている様子は見られず、佐藤栄作に匹敵するような外交の成果を彼が上げた実績などもちろんない。大臣就任前は脱原発を主張するも、原発の継続利用を訴える安倍内閣で大臣に就任した後は口をつぐんでしまう。つまり、実績も信念も祖父や父の足元にも及ばない、しょうもない小物政治家ではないか。それなのに、佐藤栄作には強く出られて、河野太郎には強く出られないのか?*2
結局マスコミ各社は、「強く叩けばあいつらは凹む」と安倍内閣の面々に思われているから、このような傲慢な態度で挑まれるのである。そうして、マスコミ各社はいつまでも負け犬根性で政府の提灯持ちをやらされるのか?
フランスでは、マクロン大統領の傲慢な態度が民衆の怒りに火をつけ、暴動の結果、政府に強い要求を飲ませることに成功したではないか?
言論や政治を、民衆が自分たちの手元に置いておきたいのであれば、政治権力の暴力に対しては自分たちも暴力的な態度を示すという、強い意思表明が必要なのである。
マスコミ各社には、今からでもまだ間に合うので、各社の連名で、今回の質問無視4連発の件について、政府に対して、次のような強いメッセージを出してほしい。
「外務省からマスコミ各社に正式に、誠意ある謝罪がなければ、今後あらゆる外務省の会見には協力しないし、外務省のどんな実績も一切報じない。河野太郎の存在自体、あの記者会見での質問と同様、存在しないものとして扱う」と。