雑記(主に政治や時事について)

日々の雑感。政治色が高い目。

杉田水脈の「生産性」発言問題は、そもそもLGBTだけの問題ではない事を認識すべき

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もういろんな手垢が付きまくった話題なので今更だが。

bunshun.jp

 

下記の通りLGBT関係の人々を中心とした大規模なデモが起こったこともあり、「ああ、ああいう界隈の話題か」と捉える人も多いようだが、日本に暮らすすべての人々に関わる話なので、改めて書いておきたい。

www.huffingtonpost.jp

 

 

出産は人間の生産なのか? 何に対しての生産なのか?

まず、報道された「新潮45」の該当記事部分を、段落ごと引用する。

例えば、子育て支援や子供ができないカップルへの不妊治療に税金を使うというのであれば、少子化対策のためにお金を使うという大義名分があります。しかし、LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女たちは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか。にもかかわらず、行政がLGBTに関する条例や要項を発表するたびにもてはやすマスコミがいるから、政治家が人気とり政策になると勘違いしてしまうのです。

 

はい、完全にアウト。何がアウトって、LGBTがどうのとか以前に、「生産性」ってのがもうアウト。

子を生むのって、生産行為なのか? 新しい家族が欲しくて子供を生むんじゃないのか? 家族と一緒に生きていくのが楽しいから子供を生み、育てるんじゃないのか?

 

子供を生むことが生産行為であるならば、それはなにか自分以外の主体に対して「納品」するための行為にほかならない。彼女の文章の文脈からすれば、納品する対象はもちろん国家にほかならない。LGBTを支援しないというのは、納品されない以上支払いはできないと。つまりそういうことなのだろう。*1

子を生み育てる行為すら国家に対する「生産」であるならば、人間のあらゆる営為はおおよそ国家に対する生産なのであろう。

 

自民党はどこまでカルト化するのか?

子を生むことは国家に対する生産行為。そんな恐ろしい考え方を持った人間が、日本という民主主義国家における政権与党に所属しているばかりか、それを自民党に引っ張ってきたのが自民党の総裁であり、総理大臣でもある安倍晋三であるという事実は、信じがたいことである。つまり、自民党の党としての考え方に等しいのである。

そのことを裏付けるものが、杉田自身の下記の投稿である(現在は削除済み)。

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自民党の懐の深さ」で、子を生むことは国家に対する生産行為、という考え方を世間に開陳するということは、問題なしとされているようなのである。つまり、自民党公認の考え方のようなのである。

挙げ句、二階幹事長は下記のように発言している。

www.asahi.com

 

「人生観」などというのは完全に詭弁である。自民党の議員の言論活動が自民党の考え方と切り離せるというのなら、自民党の議員が前進チャンネルにゲスト出演したとしてもお咎め無しということなのか? オウム真理教の後継組織に体験入信して、体験談を出版媒体に寄稿したとしても問題ないということなのか? あの場で問われていたのは、自民党としてどう捉えているのかということである。*2

自民党はどんどんカルト化していっているように見えるが、石破のように批判できる人もまだいる(内容的に「人の気持ちを傷つけて」とか、若干ピントがずれているところもあるが)。石破やその周辺の人達には、ここを徳俵と思って、さらなるカルト化を食い止めていただきたい。*3*4

www.huffingtonpost.jp

 

国家のために国民があるのではなく、国民のために国家がある

子を生むことは国家に対する生産行為。杉田が寄稿した内容が問題ないと考えている人がいるのなら、「国家のために国民があるのではなく、国民のために国家があるのだ」と説得するよりほか無い。国民主権憲法で謳った民主主義国家で、人間は国家のために貢献すべきであるなどという考え方は、国家カルトというべき考え方である。

他ならぬ自分たちの人生を国家に捧げるために、政治に関心を持ち、選挙に足を運び、国会議員に意見をするなど、なんのためにやっているのかワケがわからない。カルトそのものではないか。

自分たちのために政治を運営するのだからこそ、政治に関心を持ち、選挙に足を運び、国会議員に意見をする意味があるのである。

*1:そもそも、主体が「国家」であれ、もっとぼんやりした「世界」であれ、人間の営為を「生産性」のような概念に還元してしまうことの問題は、もう19世紀にドストエフスキーが「罪と罰」に書いているではないか。人間の営為の価値を「生産性」などという概念に還元できるのであるならば、ラスコーリニコフが金貸しの老婆を殺した事も、正しい行いだったと言えるのではないか?

*2:あの場で二階は、「表現の自由」を盾にサヨクの批判を封じるような、ネトウヨロジックのようなものを用いて杉田を擁護したかったようなのだが、無駄なことである。政府や国会議員には憲法遵守義務があり、また日本国憲法には「幸福追求権」がある以上、LGBTを含めた日本国民の「幸福追求権」を支援するためのあらゆる努力を、政府や国会議員は惜しんではならない。そういう点からも、杉田水脈が議員辞職を求められるのは、憲法上も当然のことである。

*3:オウム真理教もそうであったように、カルトの問題とは、単にその教義の反社会性のみならず、自らの反社会性を自己批判できなくなるというところに問題があるのである。

*4:この石破が総裁選唯一の安倍への対抗馬であること、そして現状では到底勝ちが見えていないところに、自民党の腐敗の進み具合が見えるのである。特に岸田や竹下は、今更安倍支持を表明してどうなるのかとしか思えない。どうせ派閥ごと冷や飯を食らうなら、石破を応援して、心胆を寒からしめた方が良いではないか。「俺たちを干したら自民党を割るぞ」と安倍を脅したほうが、交渉も有利に働くというものだし、なんなら実際に党を割ってみたほうが、自分らで政局のキャスティングボードを握れるというものではないか。