熊本市議会において、緒方夕佳市議が子連れで市議会に出席しようとしたところ、周りの議員らに批判され、同伴を断念した件について。
子供を議場に連れてきて本当に議会が真っ当に進行できるのかなど、細かな問題点は色々あろうが、自分としてはまず緒方市議の行動そのものを賞賛したい。
また、一地方都市の話題である本件が、海外で話題になりつつある事も頭にいれるべきである。
政治とはまずパフォーマンスありきである
まず、Twitterなどを見ているとどうも緒方議員がいきなり子供を議場に連れてきたかのような勘違いをされている方もいるので、それだけは間違いであると言っておきたい。
下記の記事にもある通り、子供が生まれる前に、妊娠がわかった段階で、議会事務所に相談をしていたようなのだ。
荻上チキ 赤ちゃんと議場入りした緒方夕佳・熊本市議インタビュー
(荻上チキ)さて、今回ですね、市議会に赤ちゃんを連れて行ったということで非常に大きな話題になっているわけですけども。そもそも、今回の行動に至るまでにはどういう経緯があったのでしょうか?
(緒方夕佳)去年、子供を授かりまして。その報告を議会事務局にした折に、「生まれてから、小さな赤ちゃんのいる状態での議員活動をサポートしてほしい」っていうお願いをしまして。で、具体的には「いつでも授乳をできるように議場に連れて行きたい」というような話をしまして。そしたら、「議場は難しい」と。「ならば、いま国会の方では議員用の保育所なども整備されているんですけども、熊本市議会にも託児所が作れないか? そこは議会の傍聴に来られた方も預けられるので、託児となると人間と場所を両方確保しなくてはいけないので。議員としてはまだ私しか、利用者がいないのであれば、まずは人だけの確保ができないか?」というような話をしてきたんですけども……。
(荻上チキ)ええ。
(緒方夕佳)事務局としては、「議員さん個人でベビーシッターを雇って対応してください」というような、すごく個人的なことというようなメッセージを私は受けてですね、今回、可能な範囲で出たいと思いまして。事前に事務局の方に連絡をして話して。また、同じような話をしたんですけど、「個人でベビーシッターを」っていう反応だったんですね。それで、私としては壁が立ちはだかっているように感じまして。これから私としては、子育てをしやすい世の中、子供が幸せな世の中を作っていくために、ぜひ子育て中の女性に議員になってもらいたい。そうするための環境整備をしたいって思っているんですけど。
つまり、緒方氏としては、自分の妊娠を奇貨に、熊本市議会を女性の働きやすい職場に変えようというアクションを起こしていたわけだ。
それに対し、事務局としては「個人的にベビーシッターを雇って対応するように」と、あくまでも個人の問題に帰結させようとしていた。
そこで、議会に子供を連れてくるというアクションに打って出たというわけである。
このアクションに対し、市議会側は「いかなる理由でも議員以外は議場に入ることはできない」と緒方市議に説明。緒方市議が友人に長男を預けるまで本会議の開会が40分遅れた。そしてこの開会の遅れに対し、処分まで検討している。
本件については「じゃあ、要介護老人を議場に連れてきてもいいのか?」など、色々な意見もあろうし、時には大人が口汚い言葉を交わし合う議会に子供を連れてきていいのだろうか、という疑問が出るのもまた当然である。
また、一般企業であれば、子供を連れて業務をしようなどとはあまり考えられないだろう。否定的な反応が出るのもおかしくはない。
本件をめぐる様々な意見の中で、例えば堀江貴文は、下記の記事によると、本件を「どうせパフォーマンス」と言い放ったようである。が、一方で記事中では「いいんじゃないですか?」とも言っているようなので、記事がミスリードするような書き方をしているようにも見える。
本件を「ただの下らないパフォーマンス」と切って捨てる意見はネット上に散見される。だが、自分は本件につき、「パフォーマンスをした」ということ自体を、まず高く評価したいと考えている。
政治とは何か? 国会では立法をやっているし、地方議会においても条例の制定などやっていて、つまりルール作りをやっている。そう、政治とは世間のいろんな問題を解決するためのルール作りの行為を指す言葉である。
熊本市議会は「いかなる理由でも議員以外は議場に入ることはできない」と杓子定規にルールを守れと繰り返していたようだが、そんなものは必要があれば議会に議題として掲げ、必要に応じ変えてしまえば良いのである。
だが、熊本市議会は緒方市議の意見を聞き入れなかった。ここで諦めず、議会を掻き回してでも注目を集め、新しいルール作りをするということを、議題に上げざるを得ない状況を作る。そのアクションこそまさに政治をするということなのである。
近年は、政治に対してアクションを起こす人間に対し、「デモなんて頭の悪い学生のやることだ」であったり「そんなことより俺達の明日の飯の種のことを考えてくれればいいんだよ」などと冷ややかな目を向ける人間が増えている。
だが、政治の仕事とは、上記のとおり、現状のルールを批判し、新しいルールを作り上げ、具体的に運用ができるようにする行為である。
だから自分は、政治的アクションという行為そのものに冷ややかな目が向けられつつある、異様な世間の現状の中で、非常にまっとうな政治的アクションが立ち上がったということ自体を、高く評価したいと考えているのである。
海外からの注目次第では、慰安婦問題と地続きと取られかねない
本件は海外から注目されつつあることも指摘しておかなければならない。下記リンクのとおり、本国のサイトでも取り上げられ始めている。
冒頭に掲げた写真はアメリカのNPR(ナショナル・パブリック・ラジオ)のサイトに掲載されている写真である。絵画的によくできた構図であり、非常に象徴的な取り上げ方をされていると見えるがどうだろうか? この様子を自分が文章で描写するなら、こういうことになる。*1
険しい顔をした男三人が、子を抱えた一人の女性に詰め寄っている。
女性は三人に懸命の訴えをしているが、旗色は悪そうである。
その後ろにいる者たちの大半は中年の男性であり、皆一様に暗い色の同じようなスーツを着ていて、女性に冷ややかな視線を投げかけている。
議場全体に冷たく白けた空気が流れ、「さっさとあいつを黙らせろ」といった声が、そこかしこから聞こえてきそうである。
自分はもちろん議会の様子を見たわけではないので、上記のような様子だったのかは分からない。熊本市議会の人々がそんなに冷たい思いでいるのかなど、知る由もないし、本当は、緒方市議のために、何とかしてあげたかったのかもしれない。
だが、NPRが切り取った写真の風景からは、上記の描写ができてしまう、ということである。NPRのサイトを閲覧したアメリカの読者が、「いかにも女性の地位の低い、日本の一地方における一幕であるな」と見てしまってもおかしくないだろう。
まして、日本については直近で下記のような問題が立ち上がり、カルフォルニア市と大阪市が姉妹都市提携を解消するという、大きな騒動に発展したのだ。
上記の記事に、日本の大阪市と右翼団体と政府の愚かな動きを、時系列順に書いている。この動きはアメリカでも認識している者がいるはずである。
熊本の問題を見て、「日本における女性の地位は非常に低く、先進国にあるまじき問題である」と捉えた者の中に、「結局、女性の地位が低い社会の問題という意味で、慰安婦問題とこれは地続きなのではないか? 日本社会の非現代性を、国際社会において大いに問題化すべし」と捉える者がいてもおかしくないのである。
熊本市議会よ、パフォーマンスせよ
日本の知らぬ間に、海外で本件が慰安婦問題と地続きと捉えられ、国際問題化する。それなりに考えられる最悪のシナリオである。
そんな事にならないようにするにはどうすればいいか。簡単なことである。熊本市議会が、緒方市議への処分などという、なんの効力も産まないであろう振り上げた拳を下げ、むしろ議場への子供の入場を認め、なんなら市議達との記念撮影などをして、その様子をマスメディアに取り上げさせればよいのである。
そんな事は、一時のパフォーマンスにしかならないかもしれない。託児所を作って本格的に対応するとなると金の問題などもあろうし、緒方市議が望むような大きな解決にはならないのかもしれない。だが、ひとまず一時のパフォーマンスでもすれば良いではないか。それが政治というものである。
しかも、連れてくるのが赤ちゃんなのであれば、議事進行の妨げにさえならなければ誰の迷惑にもならないし、金だってかからないのである。赤ちゃんが泣いてしまってあやさなければならないのであれば、その時だけ緒方市議が外に出てあやせば良いだけの話である。
そう、誰の迷惑にもならないことが、大事になっている。まさに、非常に有名な下記の演説と全く同じような状況が起こっているのである。
この状況を巻き返すには一つしかない。熊本市議会よ、パフォーマンスせよ。緒方市議だけのためでなく、赤ちゃんのためでなく、熊本市だけのためでもない。日本のために、パフォーマンスせよ。
慴(おそ)るるなかれ。
*1:西洋絵画の、宗教画などに見られるような、大変古典的な構図である。画面を9分割した右下の交点に女性の表情があり、女性が見上げた視線の先に左上の交点があり、険しい顔をした2人の男性議員の顔がある。そして右上の空白部分にこの場面を象徴するような風景が写っている。宗教画の世界により身近に触れているアメリカ人には、この構図は日本人が考えるより、ずっと心に来るものがあるだろう。