雑記(主に政治や時事について)

日々の雑感。政治色が高い目。

最高齢記録や不老不死について思うこと

headlines.yahoo.co.jp

ジャマイカのバイオレット・ブラウンさんという世界最高齢の女性が亡くなり、鹿児島県喜界町の田島ナビさんが入れ替わりで世界最高齢になったとのこと。

ブラウンさんの前はイタリアのエマ・モラノさんが世界最高齢だったとのことで、やはり男性に比べて女性の方が長生きなのだなぁと思いつつ、ふと気がついたのは皆さん117歳であるということ。

で、長寿の記録を調べてみたら、やはり下記の通り。

長寿 - Wikipedia

どうも120歳の近辺に人間の寿命の壁があるようなんですな。

matome.naver.jp

 

一方で、大真面目に不老不死の研究をやっているところもあります。

spotlight-media.jp

karapaia.com

 

アメリカの巨大企業の経営者が、巨額の私費を投じて不老不死の霊薬を開発するっていうのが、なんともMADな感じがして良いですな。

「限りある生命だからこそ、一日一日を大切に生きられるのさ」などと嘯いてみたところで、そんなものは体が元気な間の気休めにすぎない。やはり不老不死の一日でも早い(つまり自分が生きている間の)実現を期待せざるを得ない。

 

そういや、今年の年末には頭部移植という極めて怪しげな前代未聞の手術が実施される。世界の医学、どこまでMADな領域に踏み込むんだ……。

edmm.jp

 

つーか、カナベーロ医師、大変失礼ながら、マッド・サイエンティスト感凄え!

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不老不死研究にせよ、頭部移植にせよ、人間のそのものの存在の枠を大きく拡張する一歩にほかならない。人間は必ず死ぬ、というその一点において、全世界の全ての人類は平等であり、それを前提に置いて泣き、笑い、怒り、仕事をしているのだ。不老不死の達成は生活だけではなく、人類全体の文化感や芸術感にさえ影響を与えるだろうし、おそらく政治にも強い影響を与えるだろう。

 

特に政治に関しては、様々な社会システムが、人間は概ね80歳位で死に、どんなに頑張っても不老不死ということはない、という前提で存在しているのだ。当然大きな影響を受けることになる。

例えば、人間が死なない(死ぬにしても何百年も先)とかになったら、年金なんてシステムは到底維持できないし、むしろ必要なくなるのかもしれない。また、人口増加を何処かで抑制しないと人間が地球上にあふれかえることになる。宇宙開拓ができればいいのかもしれないが、開拓にかかる時間より人間が増えるペースのほうが早くなるだろう。

 

そもそも現代のあらゆる国の政治の構図自体、ある意味人類の命が有限であることを前提に作られたものだ。寿命に限りがないのであれば、国家は成果が出るのに50年とか100年かかるようなプロジェクト(例えば教育や先端技術への投資とか)にも堂々とリソースを投じることが可能になる。「この政策の成果は200年後に受け取れますよ」と有権者に訴えても、説得力を持ちうるからだ。

しかし、人間の寿命には限りがあるので、200年後の国の話を政治家に訴えられた所で当然ピンと来ない。自分自身にはなんの特にもならない事のために金を使うと言っているのだから当然である。従って、どの国も自然と、有権者が生きている間に利益が得られる政策にしかリソースを投じなくなる。

だから、現代の民主主義国家の政治権力者が、「輪転機をぐるぐる回して金を刷れば景気が良くなる」とか、「外国人の労働者を追い出せば自国民に雇用が戻ってくるぞ」みたいな、近視眼的で「国家百年の大計」なんてものがこれっぽっちも感じられないみみっちい政策を訴えるしかないのも当然のことなのだ。*1

 

そんなわけで、個人的には不老不死研究に大いに期待しているし、その恩恵にものすごく預かりたいのだが、きっとその成果は政治権力者によって握りつぶされるのだろうと悲観している。

一握りの富裕層や政治権力者だけが不老不死の霊薬を手にし、普通の人間は今と同じくボロボロになるまで働くしかない。結局現在の構図と大して変わらないんだろうなぁと、自分の霊感がそう囁くのである。

*1:一方で、「国家百年の大計」という言葉が昔から有るように、古い政治家は人間の寿命を乗り越えた政治を実現していた。人間が自分の寿命の限界を超えた世界を幻視するのは、それ自体宗教的なビジョンにほかならない。古い時代の政治家は、発言や行動によって自身を英雄と見せることで、人に宗教的な規模での遠大なビジョンを幻視させることができた。恐怖政治で世論を押さえつける国家でないのなら、現代においてもそれは必要不可欠な事なのだ