雑記(主に政治や時事について)

日々の雑感。政治色が高い目。

浜田ブラックフェイス問題について

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前回の下記エントリーに書いたとおり、システム障害で年が明け、正月三ヶ日を仕事をして過ごすことになってしまい、年末年始の番組を全く見ていないという、完全非国民状態の自分だが、ネット言論界隈もなんだか正月番組の話題一色になっており、すっかり全てにおいて出遅れ感がある。

www.po-jama-people.info

 

そんなわけで、少しでも世間の空気に追いつくべく、またもや番組を見てもいないのに、正月番組で起こったもう一つの問題である、「浜田ブラックフェイス問題」について書いてみようと思う。

 

 

自分としてはどうか

まず、この問題に対する自分のスタンスだが、日本人に黒人に対して差別をするという文脈はあまりないので、これを差別と言っていいのかは微妙であるが、じゃあ全く差別ではないと主張していいかというと、それもまた微妙という、極めて曖昧なスタンスである。

 

歴史的な文脈として黒人を差別していたかというと、勿論そんなことはない。日本人は黒人を奴隷にしたことなどないし、織田信長など西洋人の連れてきた黒人奴隷を家臣にし、「弥助」という名前と武士の身分を与えたほどである。

弥助 - Wikipedia

 

一方で、自分は歌舞伎町近辺に住んでいるので、歌舞伎町によく歩いていくのだが、ゴールデン街の近くなどでよく黒人が客引きをしているのを目にするし、自分も腕を掴まれて店に引き込まれそうになったことがある。

黒人を客引きに使っているというのは、日本人にとって黒人が「恐怖の対象」であることを利用したものだし、それは黒人を「意思疎通の難しい猛獣の類」と見る差別的な感覚を、商売に利用したものであると見ることができる。

 

つまり、日本人にとっての黒人というのは、恐怖心と差別心の入り混じった、しかしあまり馴染みのない存在ということなのではないだろうか? そういう対象を真似たとて、それを差別といえるのか? 全く差別していないとは言えないかもしれないが、西洋人が考えるような「ブラックフェイスをした」という批判の文脈が当たるのかというと、やや疑問がある。 

 

ブラックフェイスという差別的文化の文脈に乗っているといえるのか?

そもそも「ブラックフェイス」という芸のスタイル自体、ステレオタイプな黒人像を広め、差別に一役買ったものであるという主張は確かにある。

ブラックフェイス - Wikipedia

 

ステレオタイプの強調それ自体が差別だというのであれば、確かに差別なのかもしれない。しかし、アメリカやヨーロッパでそのステレオタイプをやるのと、日本でやるのではやはり構造が違いすぎ、同じ文脈で差別を語るのは難しいのではないかという疑問がある。

黒人を「モノ」として扱ってきた人たちが黒人のステレオタイプをやるというのは、まさに相手を「モノ」として観察した結果を形態模写するということである。相手の人格を無視し、侮ってきた存在を、そのとおり模写しているのである。

一方、日本人のように黒人を「よく分からない怖いもの」として扱ってきた人たちが黒人のステレオタイプをやるのは、果たしてどういう行為なのだろうか? ちょっとよくわからないが、単純に差別につなげるのが難しい感じがある。しかも、浜田のモノマネはエディー・マーフィーのモノマネである。エディー・マーフィーを「黒人だから」といって侮辱するような日本人は、限りなく少数派なのではないだろうか?

 

そもそも日本には黒人の真似をする芸能人や芸人は、昔から多くいた。ラッツ&スターしかり、エノケンしかり、ノッチのオバマのモノマネしかり。だが、そういうものが、先に上げたブラックフェイスの歴史に乗っかったものであると主張するのは、やはり無理があると思われる。

差別とは、歴史的に形成された社会構造の中に見いだされるものだからである。

 

ダルビッシュに対する差別

ここまで書いておいて、じゃあ「浜田ブラックフェイスにはなんの問題もない」とハッキリと言ってしまうのか? それはやはり難しいと思うのだ。

news.livedoor.com

 

グリエルがダルビッシュに対し人種差別的なジェスチャーを見せ、出場停止処分を受けた件である。日本でもそれなりの反応があり、グリエルを叩く人も多かった。

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だが、グリエルのモノマネなどベンチ中の仲間内での一幕であり、出場停止にしなければならないものなのか、自分としては疑問もあった。

本日亡くなった星野仙一の中日の監督時代など、ベンチ内で自チームの選手に殴る蹴るの暴行を加えていたのだが、彼がチーム内の暴力が理由で出場停止になったことなど一度もない。星野の行為は明らかな犯罪なのだが、一方グリエルの行為は犯罪ですらない。

この差は何か。もちろんMLBNPBの違いもあろうが、大きいのはやはり時代の違いである。ことの良し悪しは別にして、差別行為に対する風当たりは、少なくともアメリカでは犯罪に匹敵する反応を見せられるようなのである。

 

内向きな話をするのもいいが、もうすぐオリンピックだぞ

そんなわけで、この問題に対しては、事の良し悪しに対する反応は自分としては微妙である。だが、少なくとも日本にはあまり内向きな反応ばかりしている暇はないのではないかという気もしている。日本テレビとして何らかの表明はするべきなのではないか?

 

「暇はない」とは、どういうことかというと、オリンピックのことである。

オリンピックにはもちろん、様々な人種の人間が集う。そこで日本人の意識が問われることになってしまう。

ことの良し悪しは別にして、オリンピックを主催する側ということは、日本人は評価される側なのだ。そこで今回のようなブラックフェイス問題が起こった場合、どのような反応が引き出されるのか。そこに思いを致すべきだ。

もう時間がないのだ。日本人の意識を変えよなどとは言うつもりはないが、いわゆる「人権への配慮」の真似事だけでも、できるようにしなければならないだろう。面倒くさいようだが、安倍晋三が言うように、「日本の魅力を海外に発信する」のであれば、当然付いて回る話である。

 

自分らが相手の側に歩み寄ることもなく、自分のことだけアピールし、相手に良く見てもらおうなど、そもそも図々しい話なのである。